泡沫

どうも、とりあえず自分の好きなものについて適当に語るだけの簡単なブログです。暇な人や物好きは見てってね。

俺たちの○○って結構重要なのではないか?

 少し前にツイッターである人が鬼滅の刃が低年齢層に爆発的な支持を得ているのは、同じジャンプ漫画でいえばDBやワンピース、他コンテンツでいえばアンパンマンドラえもんポケモンといった昔から続く既存の作品ではなく、ごく最近で完全にゼロから(鬼滅の刃は原作の連載開始が2016、アニメは2019年と両方とも最近に始まっている)始まった作品であり、俺たちの作品なんだという印象を彼らに与えたのも理由の一つではないかと推測していたが、確かに何かを好きになることについてその俺たちの○○というのはかなり重要なのかもしれないなぁと私は感じる。 

 

 これは私が幼い時にウルトラマンティガ仮面ライダークウガを始めて見た時に感じた気持ちにも似ているかもしれない。(完全に私事で申し訳ない(^^;。 

 

さて、ウルトラマンティガ仮面ライダークウガ。両方とも平成ウルトラマン平成ライダーの第一号作品にして、タイプチェンジや従来の作品からの世界観一新といった後の作品にも受け継がれる斬新な設定と今なお色褪せぬ重厚なドラマなどで、当時から多くの視聴者の話題を呼び、放送から20年以上たった今でも根強い人気と支持を持っている2作であるが(個人的には平成ガメラと合わせて平成特撮のエポックメイキングになったとまで思っている。)、この2作が今もなお支持されているのは、先述した要素もさることながら、幼少期の私を含めた当時の子供たちにとってしてみれば完全に新しく始まった所詮”俺たちのウルトラマン仮面ライダー”だったというのも大きいのではないだろうか。 

 

 ティガについての話だが当時、私はウルトラマンという作品はばっちしVのウルトラマンワールドといったビデオや全ウルトラ怪獣超図鑑といった書籍を見て育ってきていたが、そこにいるのは初代~80までの昭和やグレートやパワードといった海外組、そしてネオスやセブン21といったほとんどが所詮M78星雲出身のウルトラマンや怪獣たちであり、当時は家に本編のビデオやLDなどもなく、テレビの再放送とかもやっていなかったので私にとってウルトラマンというのは当時から好きではあっても、どこか昔の遠い作品群にも感じていた。そうした中で1996年にウルトラマンティガを始めてTVで見た時は本当に衝撃だったのだ。従来の赤と銀だけでなく紫を使ったカラーリングとデザイン、タイプチェンジといった新要素もさることながら、何よりも従来のM78星雲やウルトラ兄弟という一つの世界や宇宙人という出自から脱却した完全にゼロから始まる新しい世界観に私は心を惹かれたのは間違いない。これこそ自分が見たかった”俺たちのウルトラマン”なんだ!、少なくとも私は初めてウルトラマンティガを見て強くそう感じたのである。(少なくともこの経験が私にとってこれ以降もウルトラマンという作品を見ていく原動力や起爆剤になったことは全く疑っていない。) 

 

 クウガに関しては、当時ウルトラマンと違って映像で動く仮面ライダーを見たことはなく書籍でライダーや怪人を見たことがある程度で、ウルトラマン程関心はなかったと記憶している。当時の日曜日の朝は戦隊やカブタックやロボタック、ロボコンといった作品を見ていたことや先述した通り動く仮面ライダーを見たことがなかったのもあって、仮面ライダーという作品はウルトラマン以上に所詮、昔の作品という印象が強かった。 

 そうした中でロボコンが終わり、新番組予告を見た瞬間は本当に衝撃的だったかもしれない。先ほどまでの明るくコミカルなムードとは一転した、不気味でおどろおどろしいBGMと映像とナレーション、そして最後に出てくる赤い姿のヒーローと仮面ライダークウガのタイトル、これを見た瞬間私は映像の怖さに恐怖を覚えるとともに、なにかとんでもない作品が始まるかもしれないぞという予感も感じた。 

 そして一週間たった日曜日の朝に実際にクウガを見た時はさらに強い衝撃だった。 

それまでのカブタックやロボタック、ロボコンといったコミカルで明るく悪く言えばおちゃらけていた路線とは全く正反対ともいえるシリアスで重厚なドラマにリアリティを重視した設定やホラーテイスト溢れる展開など子供心に理解はできなかったが斬新さは感じることができ、とにかく先述した作品たちとは完全に相反するクウガという作品の魅力にハマり、ティガと同じような”俺たちの仮面ライダーなんだ!”という感動を強く覚え、アギトや龍騎といった後の平成ライダー一期の作品群を見ていくきっかけになり、ウルトラだけでなく仮面ライダーという作品も好きになっていったのは間違いないといえる。  

 

とここまで私事ながら、自分が初めてティガとクウガを見た時の例を挙げて何かを好きになるのに既存のものとは関係のない”俺たちの○○”というのは重要なのではないかという話をしてきたが、これはあくまで個人的な体験に基づく意見に過ぎないものであり、実際に何かを好きになるという理由は人によって様々だというのも間違いないだろう。ただ、やはり冒頭の鬼滅の話題や自分の例を考えると初めてその何かに触れる人にとっては既存のコンテンツとは関係なくゼロから始まる”俺たちの○○”というのは大事なのかもしれない。

 

 

 

平成国産ウルトラ怪獣第一号はどいつなんだ!!

さて、時代が平成から令和に移ってからもう久しく、ウルトラシリーズも既にタイガ・Zと2作品も放送されている昨今だが(Zの盛り上がり要は言うまでもなく私自身も毎週楽しみにさせてもらっている)、あまりフィーチャーされることはないが実は平成におけるウルトラシリーズの国産怪獣第一号というのは個人的には結構分かりにくいので、今回はそこを色々と考えていきたい次第である。尚、この記事はあくまで一ウルトラファンの勝手な考察に過ぎないのでほぼネタとして見ていただければ幸いである。 

 

さて、平成ウルトラマン第一号といえば多くの人がティガと答えるだろうが、実際は純粋な平成ウルトラシリーズ第一号は国内ではなくオーストラリアで制作されたウルトラマングレート(現在は字幕版がYouTubeで配信中)であり、完全な平成ウルトラ怪獣第一号となると、第一話に登場した邪悪生命体ゴーデスこそが当てはまることになる。 

 

だが、国内という話になるとTVでは1980年のウルトラマン80以降は実写の新作が途絶えて久しく、再編集の映画やTV番組、雑誌展開などで何とかしのいでいる状態であった。そうした中で、1994年に平成初の実写ウルトラマンとしてウルトラセブンの続編であり環境省とのタイアップでもある平成ウルトラセブン2作(太陽エネルギー作戦/地球星人の大地)が作成された。この平成セブンに出てくる怪獣は一作目こそピット星人とエレキングという既存怪獣で、2作目では片方こそこれまたお馴染みのメトロン星人なのだが、それに加えてもう一匹恐竜という怪獣が登場する。(ちなみにこいつ、後に名前が付いたり○○恐竜とかいう二つ名とかはなく本当に恐竜という名前の怪獣なのだ。)その為、平成初のオリジナル怪獣という点だけで見ればこの恐竜こそが国産平成ウルトラ怪獣第一号になるのだが、この恐竜、一からデザインをしたわけでも着ぐるみを新造したわけでもなく、当時の円谷にあった有り物の恐竜の着ぐるみをそのまま使いまわしたに過ぎないため、個人的には純粋な新怪獣としてはカウントしづらい奴でもある…。 

 

さて、年が変わり1995年になるとイベントや雑誌展開からTVシリーズに繋がる企画としてウルトラマンネオスが誕生し、実際に雑誌やショーなどで発表されたうえでパイロットフィルムも制作され、そこで平成になって初めてザム星人とドレンゲランという純粋に一からデザインされスーツも新造された怪獣が登場することになったのだ。その為、先述したように純粋に一からデザインされスーツも完全新規造形という点に絞れば、このザム星人とドレンゲランこそ、平成国産ウルトラ怪獣の一号といえるだろう。 

 

だが、残念ながらウルトラファンはご周知のとおりウルトラマンネオスTVシリーズは諸般の事情により頓挫することとなってしまい(後に2000年にOVシリーズとして復活するが)、それに代わる新たなTVシリーズとして作られたのが、ご存じ今もなお根強い人気を誇るウルトラマンティガであり(私もリアルタイムで見た初めてのウルトラであり、一番大好きなウルトラマンである)、その第一話に登場するのがゴルザとメルバであり、TVシリーズで初めて登場した完全新規怪獣としてみれば、この2体が紛れもなく当てはまるのは疑いようもない。(ただ個人的にはティガの実質的な始まりは第3話の悪魔の預言だと思っているが(^^;。) 

 

さて、ここまで平成ウルトラの国産怪獣第一号は一体どいつなのかということを色々と個人的に(勝手に)考えてきたが、振り返ってみると色々と当てはまりそうなのが多いのに驚かされる。候補としては、平成セブンの恐竜、パイロット版ネオスのザム星人とドレンゲラン、ティガのゴルザとメルバだが、先述した通り恐竜はあくまでありものの着ぐるみをそのまま流用したのにすぎず、純粋に一からデザインされた上でスーツも新造された怪獣を国産怪獣第一号とするならば、ザム星人とドレンゲランが当てはまるが、これも先述の通りネオスのTVシリーズ化が頓挫し日の目を見ない結果となってしまったために、TVで実際に登場したという点で言えば平成国産ウルトラ怪獣第一号の称号はやはりゴルザとメルバに当てはまるといってもいいかもしれない。 (※あくまで個人の考えです。) 

 

さて、ここにいたるまで散々と駄文を垂れ流していたが、私自身、一ウルトラファンとしてこれからもずっと数多くのウルトラ作品とウルトラ怪獣を深く愛し、今後も皆とともにウルトラを楽しみ盛り上げていきたい所存だして、この記事を締めくくらさせてい頂くことにする。 

 

 

共存の難しさ、ティガのターニングポイント、セカンド・コンタクト。

私がウルトラマンティガの序盤で一番好きな話は第6話のセカンド・コンタクトである。この話は、ホリイ隊員を主役にしたエピソードであり、あのうたかたの…まで続くクリッター3部作の始まりの話である。 

物語は、突然現れた強い電磁波を放つ黒い雲にTPC飛行艇が潜入するところから始まる。飛行艇にはホリイ隊員の恩師であるミズノ博士を始めとした調査クルーが登場しており、雲の中に入った途端、そこに潜んでいた謎の生物に遭遇して消息を絶ってしまう。 

ダイブハンガーのGUTS司令室内でその事実を知らされたホリイ隊員は、その雲に潜んでいるのが、電離層に住んでいると言われている未知の生命体クリッターではないかと推測する。 

蜘蛛の調査及びミズノ博士たちの捜索にダイゴ隊員が出動するものの、彼も雲の中に取り込まれ、連絡が取れなくなるのだった。 

相次ぐ非常事態に出動したレナとシンジョウ隊員の前で、その雲は落下し、中から変形怪獣ガゾートが現れ、街を破壊し人々を襲い始めた。 

両隊員が応戦する最中、ホリイ隊員はガゾートがクリッターが人間が流した電磁波の影響を受けて変異した存在だと推測し、彼らはそんな人間の愚行の被害者だと考える。 

一方、ヤズミ隊員が何らかの言葉と思わしき謎の音声を受信し、ホリイ隊員はそれを自身の発明で翻訳する。そこからは「オイシソウ!」というガゾートの幼い少年のような声が発させられ、ホリイ隊員は彼らに暴れないでほしいと話しかけるが、ガゾートは自分に話しかけてきた存在が分からず、困惑する。 

イルマはガゾートの元へ向かおうとするホリイに怪獣と対話するつもりかと聞くと、ホリイは同じ地球に住む生き物なら共存はできると信じている、空想することは素晴らしいことであり、自分はミズノ博士の遺志を継ぎたいと強い決意を口にし、イルマはそれを笑顔で送り出す。 (後の話でクリッターの性質や自分が遭遇した経験を考えると仕方ないこととはいえ、ミズノ博士の考えをホリイ本人が完全否定してしまっているのは何とも皮肉である。)

一方でガゾートの進行は尚も止まらず、登場していたウィング2号を撃墜されたシンジョウとレナが銃を片手に懸命に立ち向かっていた。 

ホリイは現地に到着すると彼らに怪獣と話をするから刺激しないでくれと頼む。当然、反発するシンジョウだがホリイの強い決意を秘めた目を見て、黙って彼が載ってきたウィング一号へと向かう。  

遂にガゾートと対面したホリイ。(ちなみにこの時、ガゾートはミズノ博士たちが着ていたと思わしき服を吐き出している。) 

イルマがクリッターが地球に住む生物だとしても人間とはかけ離れた価値観の相手であり本当に共存できるのかと懸念の意を示す中、ホリイはガゾートに自分の名前と暴れて街を壊したり友達である人間を襲ったりしないでほしいと伝える。 

ガゾートは友達という言葉に反応し、ホリイは「そうや!僕も君も同じこの星に住む仲間や!」と彼らに呼び掛ける。 

怪獣と人間、同じ地球に生きながらも異なる二つの存在の対話が成立するかもしれないと思われた矢先…! 

「トモダチハ…、ゴチソウ!トモダチハ、ガゾートノ、タベモノ!」 

ガゾートが発した言葉にホリイは絶句する。

そう、友達というのはガゾートにしてみればただ単に捕食する対象でしかなかったのだ。(イルマはクリッターが電離層で自分たち同士で共食いをしながら生きてきたと推測している。)すなわち、ミズノ博士もガゾートと出会った結果、トモダチと認識され彼らに捕食されたのである。  

「トモダチ!!」、無邪気な声を挙げながらも口を開けてホリイに迫るガゾート。絶望し叫ぶホリイを救うべく銃撃しながら怪獣へ向かうレナの叫びが繭の中にいたダイゴに届き、ダイゴはウルトラマンティガに変身し、ガゾートに立ち向かう。 

激戦を繰り広げるティガとガゾート。(この時に自分に立ち向かうティガをトモダチと認識し、腕に噛みつき捕食しようとしている他、口を開けてトモダチと連呼している)。そして壮絶な空中戦の果てに、スカイタイプの放ったランバルト光弾でガゾートは倒される。そして彼らは本来の姿であるクリッターの姿に戻る。 まるで天使みたいだと見とれるレナにホリイは見かけはなと言いながらも同時に美しいクリッターをミズノ博士に見せたかったと呟く。そして物語は夕日の中、無邪気な笑い声を挙げながら空へと昇っていくクリッターたちを映して幕を閉じる。 

この話の脚本を担当したのは、後にティガの実質的なメインライターを担当することになる小中千昭氏であり、監督は同作品において様々な名編を送り出すことになる川崎郷太氏である。(ちなみに特技監督は今のニュージェネのプロデューサーである北浦嗣巳氏である。) 

このセカンド・コンタクトは後のウルトラシリーズにおいても度々示されることとなる人間と怪獣の共存というテーマを最初に取り扱った話といえるが、この話に登場するガゾート=クリッターは確かに人間と同じ地球に生きる生物であり、会話も成立する程の高い知性を持っているが、同時に自分たちを含めた存在をトモダチ=捕食対象としか見做さない恐ろしさを持っており、とても共存が出来る存在とは言えない。(だが、そもそも同じ人間でも国や住んでる地域によって、考え方や価値観が違うのは当たり前であり、そういう意味ではクリッターたちの考え方も電離層で生息していた彼らにとってはそれが当たり前であり、一概に否定できるものではない) そういう意味でも、このエピソードは後のウルトラマンの同様の話とは大きく異なっているだろう。実際、人間同士で上手くいっているとは到底言えないので、未知の知的生物が出てきて、会話が成立したとしても、共存できる可能性は限りなく低いといえるかもしれない。(またホリイたちはクリッター=ガゾートを人間の愚行の被害者として見做していたのに対し、当の彼らはただ単にトモダチ=餌を食べることしか考えておらず、倒された後もそれまでのことなんか関係ないとばかりに無邪気に笑いながら、空へと昇っていくのも興味深い) 

 ちなみにこの話を書いた小中千昭氏自体は、怪獣との共存よりも人間が知らない世界に住んでいるクリッターのロマンと彼らが変異したガゾートの不気味さと不条理さを描いた短編ホラーSFのつもりだったのだが、川崎郷太氏は人間を捕食しながらも、最後には笑らいながら空を去っていくクリッターに疑問を持ち(この時のクリッターの処遇をめぐる両者の対立は切通利作氏の地球はウルトラマンの星が詳しい。)、後に幻の疾走にガゾートⅡを出し(本来は別怪獣の予定だった)、さらにはあのうたかたの…に繋がっていくことになるのである。(クリッターが去っていくときに天使見たいと呟くレナが小中氏、見かけはなと付け加えるホリイが川崎氏の心境だろう。)つまり、この時、クリッターの存在に川崎氏が疑問を持ったことが、後の幻の疾走でティガに変身したダイゴが腕の怪我を気にしたり、うたかたの…で自分が戦う意味をティガに問いかけながら変身し、明確にダイゴの声で喋るモノローグに繋がっていくので、平成3部作において根幹をなす要素である人間ウルトラマンという概念の成立においてもこの話がもたらした影響は大きいといえ、またこのセカンド・コンタクト~幻の疾走、そしてうたかたの…と連続した話が展開されていくのが、ウルトラマンティガを過去作のような一話完結ではなく、一つの完成されたドラマとして成立させていく原動力となったともいえる。(もっともティガという作品を一つのドラマとして本格的に成立させたのは長谷川圭一氏の功績が非常に大きいが。)

このように、クリッターという存在の恐ろしさや浪漫、怪獣との共存、未知の存在と対話することの難しさ、様々なテーマを内包した本作はウルトラマンティガという名作の中でも特に優れた一編の一つであり、また、ティガや平成3部作、さらにはウルトラシリーズという作品全体を通してみても最初のターニング・ポイントとなった話といえるかもしれない。

 

 

 

ウルトラマンのボスはやっぱり怪獣でしょうが。

ウルトラマンは多くのラスボスが存在しているが、個人的にはラスボスのタイプは宇宙人よりも怪獣の方が好きである。元々ウルトラマンは怪獣との戦いがメインであるし、人格を持ち言葉を喋るラスボスだと、ライダーや戦隊のボスと変わらないなぁと感じる次第である。

長すぎるタイトルは苦手だなぁ。

古今東西様々な作品にタイトルが付くものだが、私自身としては最近のアニメやラノベによくある長すぎるタイトルは苦手である。 

勿論、数多い作品の中で個性を出し、読者を得るためには必要なものだろうが、個人的にはここまで長く作品内容を説明しているタイトルは意味があるのかとも思ってしまう。 

個人的な意見ではあるが、やはりタイトルはシンプルだったりクールなほうが好きである。

ペットとして買いたいのは。

個人的にペットとして買いたいのは両生類のウーパールーパーである。 

見た目の可愛さと、水槽から観察するのみで触れ合う必要性が少ないのが主な理由である。 

…まぁ、そもそも色々と部屋も狭いし、そんなにお金もないのでペットを飼うなど夢のまた夢であるが。

そして僕は青空になる。

個人的にライダーソングで一二を争うほど大好きな曲はクウガのED青空になるである。仮面ライダークウガという作品自体、自分の中で特に大好きな作品ではあるのだが、この曲は明るいながらもどこか寂しさを覚える曲調に。主人公である五代雄介とも彼を支える周りの人物たちの心境ともとれる歌詞が、今この年になって改めて聴いてみて心に深く響いてくる。 (タイトルや歌詞の青空になるをクウガになると考えると悲しくもなってくるが…。)

この青空になるを聞くたびに、EDの公園で昼寝をしたり、最終回で遠い外国へ冒険をしている五代雄介の姿が脳裏に浮かぶ今日この頃である。